2015年5月26日火曜日

死ねばいいのに

「"死ぬ"なんてぇ言葉をそぅ簡単に使うなよ!」
3年B組の金八先生のセリフとして、
なぜか私の記憶に強く残っている。


かつて、私は、
とあるセミナー/ワークショップにおいて、
講師の方から、

「死ねばいいのに」

と言われた事がある。

しかも笑顔だった。


直接言われた事もあり、
金八先生のセリフよりも強烈だった気がする。


その講師の方は、
成功法則や精神世界の翻訳を手がけていて、
ご自身の著作もある著名な方。


当時の私は、
それまで積み上げてきた物が
崩れてしまった様な状態で、
少し体調も良くなかった。

経済的に困窮していて身動きがとれないとか、
最愛の人と死に別れたとか、
命を狙われているとか、
朝起き上がれないとか、
そういったレベルでは無かったが、

それなりに将来が不安で、
「なんでこんな風になってしまったんだろう」と、
悲しみや無力感、後悔の念が心を支配している、
「まあまあキツイ」状態、
そんなところだったと思う。
(※もちろん今は抜け出せている)


当日、諸事情があり、
また、比較的始まりの遅いワークショップだった事もあり、
ビール一杯飲んだ状態で会場に駆けつける格好となった。

お酒の入った状態だったからか、
その会場の雰囲気などもあってか、
会場に入って講師の方の話を聞き始めた時から、
私はなぜか涙が止まらなかった。

それはとても良いお話で、
「ワクワクする事をどんどんやれば良いんです。
世の中には良い事しか起きないんです。」
そんな内容だったと思う。

どうして泣けてくるのかがわからなかった。


その後、座談会形式のパートに入り、
参加者ひとりひとりが順番に発言をする事になった。
自分の番が来るまで、
私はひたすら感情を落ち着かせようと、
深呼吸をしたり、他の方の話を集中して聞いてみたりしていた。

そして私の番が来た。

「何を話して良いかわかりません」
まずは、そんか事を言った気がする。

「思いついた事なんでもお話してください。」
と促され、

「わかりました。。。
先ほどから、、涙が止まらないんです。。」

それから、現状を話し、
「・・だから今、とてもツライんです・・」
と、訴えていました。

(この様に書くと、さも深刻な状況だったと思われるかも知れないが、
一般に、大の大人が泣くようなレベルの話ではないので、
今こうして書いているだけで気恥ずかしくなってくる。)


それを聞いて、講師の方が
「死ねば良いのに」と、
例の発言をされた訳です。

「一度死んでみてはいかがですか?」
そんな言い回しもあったかも知れない。


「いや、死にたいなんて思ってないです。
もっと生きたいんです。
家族にも迷惑はかけられないし。
ただ、今日のお話に出てた様な、
やりたい事をどんどんやって、
楽しく生きたいって思っても
どうしたら良いかわからないんです」

そんな回答をした覚えが有る。

(当方をご存知の方からすると、十分好き勝手に楽しんで生きているのに、
何を言っているだと思われるかも知れない)


その後の事は、正直あまり憶えておらず、
その場で答えらしきものを直接得られた訳でもなかったかと思われるが、
他の参加者や運営側の方からもお声掛け頂き、
概ね以下の様なアドバイスを貰ったのかと感じている。

・家族に話をしなさい
・全ては幻なんですよ


一つ目は、誰かに話しをすると落ち着くし、
思考が整理されるという事でもあって、
これはこのワークショップ中で実行できた。

そして、問題点を整理し、課題を抽出し共有してくれるのはやはり家族。
実際に、翌日に家族に話しをしてみて、
一人で何とかしなければならないと必死になっていた状態から
一人で生きている訳では無いと思えて、
少し楽になった事を憶えている。

つまり、話し相手は誰でも効果があるけれど、
当事者に近いほうがより効果的な場合もあるという事だと感じている。
もしかしたら、部外者→知人→家族の様に、
徐々により深い関係者に話をして行くのも良いのかも知れない。


二つ目は、今感じている不安や痛みは、
数年後には間違いなく、なくなっている、
という事。

それはつまり、
現在の思考や感情は一時的な物、
つまり本質ではなく幻だという事。

実際に、現在、新しい課題はもちろん出てきてはいるが、
当時感じていた物と同じ種類の不安や悩みは
今は感じなくなっている。


幻は、それに「囚われれば囚われるほど」現実味を帯びてくる。
しかし、ただ「これは幻でいつかなくなるんだ」と思うだけで
楽になれた気がした。


「死ねばいいのに」
なんでそんな事を言ったのか。
真意は発言されたご本人にしか解らない。
当日は、そこに言及する力も無く、
動機も持ててなかった。


しかし、私なりに今思っているのは、
「人間死ぬ気になれば何でも出来る」
というような単純な話ではなくて、
「死んだらどうなるんだろうか」とか、
「年老いて死ぬ瞬間、何を思うのだろうか?」等と
「死」について考えてみる事が時に有効だったんだろうという事。

死に際には、きっと今抱えている問題なんて、
思い出の場面でしか無く、
むしろ、良い思い出にすらなっているのではないだろうか、
そんな風に感じる様になるきっかけが
「死ねば良いのに」
にあった気がする。


そして今は、死を恐れるのはただのエゴ(自我)なんだろうと思っている。

公民権運動で有名なマーティン・ルーサー・キング牧師は
「私は死を恐れない」
と言っていたそうだ。
エゴではなく、使命感のみで動けるレベルになると
そうなれるのだろう。
エゴに囚われる事の多い身としては是非ともあやかりたい境地だ。


もしかしたら、あの時の「死ねば良いのに」は、
私ではなくて、私のエゴに向かって
放たれた言葉だったのかも知れない。

グズグズ悩んでいるエゴには実際に「死んで」頂いて、
生まれ変わったように新しい一歩が踏み出せた、
今改めて振り返ってみると、
そんな気さえしてきている。


★行動へのヒント
・誰かに話をしてみる
・辛い感情や思考は、都合よく幻だと解釈する

最後までお読み頂きありがとうございました。

宮木俊明

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